初心者のためのウマ娘講座~第4話「TM対決」~

こんちわ~す。館山速人で~す。

今回はアニメ「ウマ娘 プリティーダービーSeason2」に含まれた競馬ファンが「萌える」ポイントを紹介していく「競馬初心者のためのウマ娘講座」の第4回。

第4話「TM対決」について紹介していきます。

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第4回「TM対決」より

ダイサンゲン

有馬記念でメジロマックイーンを負かした馬。エンディングにて名前が明らかになりました。

ダイサンゲンは麻雀において、いわゆる「役満」と呼ばれる滅多に見られない大きな役。元ネタであろうダイユウサクは有馬記念で単勝万馬券を演出した「穴馬」なのでこの名前はぴったりと言えるのかもしれませんね。

前の2人はもうどうでもいい

この実況は当時関西テレビの競馬中継で実況を担当していた杉本清氏が実際に行った「前の2頭はもうどうでもいい」を元にしています。

今の世の中なら炎上しかねない実況のような気がしますが、当時はそれだけトウカイテイオー1頭に注目が集まっていました。

あと他にも「これで天皇賞が楽しみになった」と言う実況も実際のレースで行われた実況のオマージュです。

1992年大阪杯

このレースは競馬を知らない人にも見てほしいレース。

普通、競馬のレースでは直線でムチが入ったり手綱をしごいたりして馬が全力で走るように促すんですが、この時のトウカイテイオーは終始手綱を動かさず、競馬用語でいう「持ったまま」で勝利しています。言うなれば「流して勝った」レースで天皇賞への期待が大きく膨らんだのは間違いないでしょう。

ミホノブルボン

ミホノブルボンのモデルはトウカイテイオーの1歳下で活躍した競走馬。調教で鍛え抜かれたムッチムチの筋肉は「サイボーグ」とも評されました。

さらに詳しい説明は改めて別の箇所でも紹介していきます。

サクラバクシンオー

サクラバクシンオーのモデルはミホノブルボンと同期の競走馬。ミホノブルボンとは(時系列的には大阪杯の1週前に行われた)皐月賞の前哨戦であるスプリングS(芝1800m)で対戦しており12着と敗れ、以降はその名にふさわしい類まれなスピードを生かすため主戦場を短距離(主に1200m~1600m)に移して活躍していきます。

あなたのスピードは間違いなく短距離向き

ミホノブルボンに短距離路線への転向を勧めるサクラバクシンオー。

バクシンオー自身は皐月賞前日に芝1200mの重賞クリスタルCを制しており、その後短距離路線でその名を轟かせる名馬へと成長していきます。

一方のミホノブルボンも、スタートからそのスピードで逃げきるレースぶりや血統背景(ミホノブルボンの父マグニテュードは短距離馬を多く輩出していた)から本質的には短距離馬と見られていました。なので、サクラバクシンオーの言う事もあながち間違いではありません。

しかし、ミホノブルボンは敢えて2000mの皐月賞から徐々に距離が長くなるクラシックへと舵を取ります。その裏にはミホノブルボンを育てた調教師の信念があり……。

メジロパーマー

メジロパーマーのモデルは90年代前半に活躍した競走馬。同期で同じ冠名(簡単に言えば競走馬の名字みたいなもの)を持つメジロマックイーン、メジロライアンとともに「メジロ三銃士」とも呼ばれていました。

私だって天皇賞出られるくらい色々頑張ってるのにイマイチ注目されない

実在のメジロパーマーは92年春当時重賞の札幌記念を勝ってはいましたが、注目度はそれほど高くありませんでした。

また、成績もその天皇賞直前の3走が障害未勝利戦→障害400万(現在の1勝クラスに相当)→芝1400mのレース、とよく言えば「色々頑張っている」、悪く言えば「迷走している」状態でした。こら!そこの競馬マニア!!大久保正陽厩舎ならこれがデフォとか言わない。

パートナーの存在が不可欠

ここで言う「パートナー」とは1頭と1人の存在を暗示しているように思われます。

1頭はこの直後に登場するダイタクヘリオス。この年のG1はメジロパーマーとダイタクヘリオス、2頭のバカ逃げ馬が大きくかき回していくことになります。この2頭の瓦解はある意味歴史的なものかもしれません。

1人は山田泰誠騎手。山田泰誠騎手は当時デビュー4年目の若手ジョッキーでこの年の3月に初めて重賞を制覇するなど頭角を現してきていました。そんな山田泰誠騎手がメジロパーマーと初めてコンビを組むことになったのがトウカイテイオーとメジロマックイーンの対決に沸く92年天皇賞春。後に競馬ファンを驚きで包む名コンビはここでひっそりと誕生していました。

ダイタクヘリオス

ダイタクヘリオスの元ネタはメジロマックイーンと同期の競走馬。持ち味のスピードを生かしたハイペースの逃げ競馬で、主に短距離路線で活躍していました。

現代競馬では分業化と言うのが正しいかどうかはわかりませんが、競走馬の適性に応じて短距離馬は短距離専門、中距離馬は中距離専門で走ることが増えてきたように思います。しかし、当時は「短距離馬が2500mの有馬記念を走る」と言う事もそれなりにあり、このダイタクヘリオスも92年は短距離路線を中心に歩みながら、中距離G1の宝塚記念、天皇賞秋、有馬記念に出走しています。これが波乱の序章になるのですが、それはまた先のお話。

お嬢様

ダイタクヘリオスの言う「お嬢様」とはおそらくダイイチルビーのことを想起させるよう作られているように感じました。

ダイイチルビーは父が「天馬」と呼ばれたトウショウボーイ、母は桜花賞やエリザベス女王杯を制したハギノトップレディで同じ母系一族から活躍馬が多く出ていたことから「華麗なる一族」と呼ばれるほどの良血馬で「お嬢様」と言われるのに相応しい馬と言えるでしょう。

この2頭の関係はある種のライバル関係であり、91年京王杯スプリングカップを皮切りに現役時代合計で8戦同じレースで対戦しています。

また、よしだみほさんによる競馬漫画「馬なり1ハロン劇場」ではお互いに恋心を抱いていると言う設定になっており、競馬ファンの間でもそのイメージは浸透しています。

それだけこの2頭は深い?関係にあったと言えるでしょう。

ミホノブルボンのマスター

ミホノブルボンのトレーナーと思われる筋骨隆々の男性、黒沼。このトレーナーにもモデルと考えられる人物がいます。

その人物が戸山為夫調教師。戸山調教師の代名詞と言えば「スパルタ調教」と「坂路」。「馬は鍛えて強くする」いう信念のもと、血統的に「良血」とは言えない馬で数多くの重賞タイトルを手にしており、その集大成がミホノブルボンでした。

皐月賞で解説の細江さんが「スピードは天賦の才、スタミナは鍛錬でカバーできる」と仰っていますが、これもこの戸山調教師の信念。

その信念のもと、ミホノブルボンは当時栗東トレセンに新設された「坂路」での調教を施されていましたが、普通の若駒なら1日1本やれば音を上げてしまうような調教を4本こなしたそう。そんなハードなトレーニングでミホノブルボンのスタミナは鍛えられていきました。

ちなみにこの戸山調教師、ウマ娘では先述の通りムキムキに描かれていますが、実際は当時61歳のおじいちゃんです(;^_^A。

トモ

大雑把に言うと馬の腰から臀部のこと。ウマ娘的に言うと「トモを鍛えろ」は「下半身を鍛えろ」ってことなんでしょうかね(;´∀`)。

どうペース配分したらいいか全くわかんない

ダイワスカーレットの発言。モデルとなったダイワスカーレットは現役当時逃げ・先行と呼ばれる馬でしたが、前述のミホノブルボンやメジロパーマー、ダイタクヘリオスと異なり、どちらかと言うと「ペースをレースにあったものにコントロールできる」タイプの逃げ馬でした。

そんな彼女が「どうペース配分したらいいか全くわかんない」と言うほど3200mは難しいと言えるのではないでしょうか。

ついてく、ついてく、ついてく

ライスシャワーが呪文のように唱えていたセリフ。この話だけ見るとライスシャワーがミホノブルボンのストーカーのように映りますが(笑)、これはライスシャワーとその主戦騎手であった的場均騎手の得意戦法を表したもの。

的場均騎手は「マーク屋」の異名を取り、「ライバルとなる馬を1頭決めその馬を負かせるように乗る」騎乗が得意で、Season1のグラスワンダーがスペシャルウィークを負かした宝塚記念がまさにそれ(的場騎手はグラスワンダーの主戦騎手でもありました)。

その強みが特に生かされたのがこのライスシャワーでした。

この皐月賞でライスシャワーは8着と敗れていますが、この馬の得意舞台はミホノブルボンと異なり長距離。今後距離が延びてくるクラシックでミホノブルボンの脅威となっていきます。

1992年皐月賞

実際の92年皐月賞は距離不安がささやかれる中、それをものともしない逃げ切りでミホノブルボンが2馬身差完勝。マチカネタンホイザは7着、ライスシャワーは8着でした。

細かい所ですが「強いぞ強いぞ強いぞ」と言う実況が再現されていたり、実際の着差が忠実に反映されていたりと細かい所で競馬ファンがグッとくる演出が施されていました。やるな、ウマ娘。

「僕は地の果てまで走っていきます」「ならば私は天まで駆けてみせますわ」

この2人のセリフの元ネタは当時2頭の主戦ジョッキー、岡部幸雄騎手と武豊騎手のやり取りを倣ったもの。

大阪杯勝利後のインタビューでトウカイテイオーに騎乗した岡部幸雄騎手はその走りを「地の果てまでも駆けていきそう」と評しました。

それを天皇賞前のインタビューで聞かされた武豊騎手は「(あっちが地の果てなら)こちらは天まで登りますよ」とライバル感情むき出しで答えています。

ちなみにこの時の武豊騎手はこの対決に相当自信を持っており、逸話としてタレントの明石家さんまさんが天皇賞直前に一緒にゴルフをしていた武豊騎手に「ぶっちゃけ天皇賞どうなんだ」と聞くと「走るのは馬だから騎手である僕はどうこう言えない。けど、この距離で(マックイーンが)トウカイテイオーに負けるはずがない。トウカイテイオーには絶対負けない。」と言い切ったそうです。

さんまさんの話なので大袈裟に言ってるとこがあるかもしれませんが、上記のセリフからも当時から天才の名をほしいままにしてきた武豊騎手がメジロマックイーンに絶対の信頼を持っており、かつトウカイテイオーに対して相当な対抗意識を持っていたことがうかがえる話だと思います。

テレビとか新聞では僕の方が優勢

実際の天皇賞でも単勝人気はトウカイテイオーが1.5倍、メジロマックイーンが2.2倍とトウカイテイオーに分があると言う下馬評でした。

おばあ様

ライバルであるトウカイテイオーの事を意識するがあまり少し入れ込み気味になったメジロマックイーンを諭すおばあ様。

こちらもモデルとして該当しそうな存在が実在の馬と人間にいます。

馬の方はメジロアサマ。実際のメジロマックイーンの祖父に当たる馬で1970年の天皇賞勝ち馬。

実はこのメジロアサマ、種牡馬として期待されながら現役時代に打った抗生物質の後遺症もあってか、種付けした牝馬がことごとく受胎しないと言う事がありました。しかし、馬主の北野豊吉氏は何としてもメジロアサマの子で名馬を作るべく、自身の所有する良血牝馬にメジロアサマの種をつけ、数少ない産駒から1982年の天皇賞馬メジロティターンが生まれます。そして、次なる「メジロ一族」の目標は「天皇賞親子3代制覇」に切り替えられ、それを実現したのがメジロマックイーンでした。それだけに、このメジロアサマは「メジロ一族」の礎とも言える馬でしょう。

人の方は北野ミヤ女史。先述の北野豊吉氏の奥様で、彼の遺言「メジロティターンの子で天皇賞を勝て」を実現させたオーナーブリーダー。競馬ファンからは「メジロのおばあちゃん」として親しまれていました。