追悼、サクラローレル
こんにちは。館山速人です。
1月24日、競馬ファンにとってはまたもや悲しいニュースが入ってきました。
サクラローレル、死去。
この名前は若い競馬ファンにとってはなじみの薄い名前かもしれませんが、オールドファンにとっては、ナリタブライアンやマヤノトップガンと共に時代を彩った名馬であり、私にとっても競馬を始めて間もないころに輝いていた名馬として強く印象に残っています。(しかし、「サクラローレルを知っている」というのがオールドファンになるなんて当時は思ってもみなかったなぁ~。)
今日はそんな彼を偲んでサクラローレルについての記事を書いてみたいと思います。
ケガに泣いた若駒時代
サクラローレルは1991年にいわゆる「サクラ軍団」とゆかりの深い谷岡牧場で生を受けた持ち込み馬(※)。三冠馬ナリタブライアンと同年代である。
※持ち込み馬…母が外国で種付けされ、日本で産んだ子供
父は凱旋門賞馬のレインボウクエストとその産駒にも凱旋門賞馬ソーマレズやイギリスダービーを勝ったクエストフォーフェイムがいる良血馬。当然陣営の期待も高いものであった。
しかし、若き日のサクラローレルはその期待の応えること出来ないでいた。高い能力を示しながらも、ケガで大舞台には立てなかったのだ。
3歳時(現年齢表記、以下同)にはダービートライアルの青葉賞で3着(※)に入ったものの、ダービー直前で球節炎を発症し、出走を断念。明け4歳になると、金杯と当時2月に行われていた目黒記念を1着、2着と連続して好走し天皇賞への名乗りをあげるも、これまた直前に両前脚を骨折。この骨折は安楽死処分が検討されたと言われるほどの重度の骨折でまたしてもG1の舞台に立つことはお預けとなった。
※当時の青葉賞は3着でもダービーへの優先出走権が与えられていた。
この当時のサクラローレルは競馬を始めて日が浅く、また、年齢的にも幼かった私にとっては「あぁ、そういえばそんな馬いたなぁ」くらいの認識でしかない馬で、よもや歴史に名を遺すような名馬になるなんて思いもしていなかった。
しかし、陣営は「この馬のポテンシャル」を諦めなかった。そのポテンシャルが5歳になっていよいよ開花するのである。
大器は晩成する
1年以上の休養を挟んだサクラローレルは、その年の2月に引退した小島太騎手から横山典弘騎手に鞍上をスイッチし中山記念で復帰。
長期休養が嫌われてか9番人気の低評価に甘んじるものの、レースでは皐月賞馬ジェニュインに1馬身3/4差をつける快勝。一躍天皇賞春の有力馬に名乗りをあげた。
この年の天皇賞春は2頭のブライアンズタイム産駒に注目が集まっていた。
1頭はナリタブライアン。サクラローレルと同期の言わずと知れた三冠馬。前年はサクラローレルと同様ケガに苦しんでいたものの能力は誰もが認めるところだった。
もう1頭はマヤノトップガン。サクラローレル、ナリタブライアンの1歳下の菊花賞馬で、長距離では無類の強さを誇っていた。
この2頭は前哨戦の阪神大賞典で対決。3コーナーから後続をちぎる文字通り「一騎打ち」のデッドヒートを繰り広げ、年号が変わった今でも名レースとして語り継がれるようなレースとなった。
多くのファンは「阪神大賞典の再現なるか⁉」と再度2頭のマッチレースが見られることを期待しながらファンファーレを聞いていた。
レースはテイエムジャンボとスギノブルボンが大きく逃げてペースを作る形。マヤノトップガンはややかかり気味に先団。それをやや後方でマークする形でナリタブライアン、さらにその後方で様子を見ながらサクラローレルが進む。
3コーナーあたりからナリタブライアンと南井克己が外目を捲って先頭との差を詰めていく、三冠を獲ったこの馬お得意の形だ。4コーナー出口ではマヤノトップガンと並んで先頭に立ち、多くのファンは「阪神大賞典の再現か」と期待した。
しかし、この時にはひっそりと、それでいて確実にサクラローレルも上位との差を詰め、4角出口では2頭の後ろにピタリとつけていた。
直線、一騎打ちの様相は一変ナリタブライアンがマヤノトップガンを競り落とす。マヤノトップガンは前半ややかかり気味に先行した付けが回ってきたのか直線半ばでは手ごたえをなくしていた。
残り200m。ナリタブライアンが抜け出すかに思われたその時、外から栃栗毛の馬体が鋭く伸びてくる。サクラローレルだ。
残り100mで先頭に躍り出ると、その力強い末脚は最後まで衰えることなく後続をグングン引き離し、2馬身半差の完勝。改めて映像を振り返ってみると、どこ前も伸びていきそうな、そんな手ごたえに見えた。
有馬記念を勝利し名実ともに現役最強に
天皇賞を制したサクラローレルは宝塚記念をパスし秋はオールカマーから始動。
マヤノトップガンとの2頭が単勝2倍を切る一騎打ちムードのレースだったが、終わってみれば2馬身半差の快勝。ナリタブライアン引退後の現役最強馬の地位を着々と固めつつあった。
迎えた天皇賞秋。サクラローレルは後方からレースを進め末脚勝負にかける。しかし、肝心の直線、外にいたマーベラスサンデーに壁をされる格好。前にはマヤノトップガンがおりどこからも抜け出せない状況が続く。
やっとうちに進路がとれたと思ったときには時すでに遅し。サクラローレルは3着に敗れてしまう。
このレースの横山典弘騎手の騎乗について管理する境勝太郎調教師は「最高に下手に乗った」「次は俺が乗る」と大激怒したと言われている。陣営にとっては「取りこぼした」と感じるG1だったのだろう。
その後、サクラローレルの次走は有馬記念に決定する。これは翌年2月で定年する境勝太郎調教師がこだわり抜いたタイトル有馬記念をどうしても獲りたいという思いが強く表れたローテだったが、当時は「なぜJCを回避するのか」「現役最強なら秋のG1は皆勤すべき」という論調も多くみられた。
調教師の悲願を達成するため、騎手の汚名をすすぐため、自身に対する外野の声を封するため、有馬記念は負けられない戦いとなった。
その有馬記念ではゲートが開くとスッと内のポジションをとり、道中はじっと脚を溜める展開。3コーナーで外に出して徐々に侵出。直線半ばで先頭に立つと、比較的早めに仕掛けたにもかかわらず坂をのぼっても脚色は衰えることなく、終わってみれば2馬身半差の完勝。
このレース、横山典弘騎手は早く外に出して安全に乗りたがっているようにも見えた。裏を返せば「外に出してしまえばこの馬が負けることはない」という馬への強い信頼が感じられるレースぶり。
この結果を受けてサクラローレルは年度代表馬に選出され、名実ともに「現役最強」の地位を揺るぎないものとした。
もしかしたらフランスで…。背筋も凍る恐ろしい話
翌年もサクラローレルは現役を続行。天皇賞春はマヤノトップガンの強襲に合うも、2着を確保。向こう正面から折り合いを欠いて引っかかってしまいながらもゴール直前まで踏ん張ったレース内容は高く評価されていいものだった。
秋は前哨戦のフォア賞をステップに凱旋門賞への出走が計画されたが、そのフォア賞で右前脚屈腱不全断裂を発症。このレースを最後に引退となった。
このレース後、関係者は悲嘆にくれながら獣医に診察を依頼する。あまりにショックだったためか獣医からのフランス語での問いかけに関係者はうんうんと気のない返事をするばかり。その時、フランス語の分かるスタッフがやおら一言。
「馬鹿野郎!ローレルを殺す気か!!」
実は、この時獣医はフランス語で「(ケガの重さから)安楽死処分をしてよいか?」と問いかけていたのだ。
この話を雑誌の記事で読んだだけの私も身も凍る思いがしたし、さぞ身も凍る思いがしただろう。
名馬の死は残念ではある。しかし、現役中2度も安楽死が検討されるほどのケガをしたサクラローレルにとって、天寿を全うできたというのは幸せなことかもしれない。
父系としては存続させるのは難しいのかもしれないが、サクラローレルの祖父にあたるブラッシンググルームはブルードメアサイアーとしてマヤノトップガン、テイエムオペラオーなどの名馬を輩出しており、母系に入ることでその底力が発揮される可能性は大いにある。
これからもサクラローレルの血は日本競馬に大きな影響を与えていくと私は信じている。