小さな体に秘められた”反骨心”~ライスシャワー~

こんちわ~す。館山速人で~す。

アシスタントの大澄晴香です。今日のブログは「名馬物語」ですね。今日はどんな馬を紹介して頂けるんですか?

今日紹介するのは、1993年と1995年の天皇賞春を制した

ライスシャワー

だよ。

それでは、はじまりはじまり~。

ライスシャワーの「イメージ」

2018年に放送され、競馬ファンの間でも話題になったアニメ「ウマ娘~プリティーダービー~」。その元となったソーシャルゲーム版にライスシャワーも登場する予定なのだが、そのキャラクター紹介にこういう記述がある。

”素直で純粋な性格のウマ娘。自分がいると周りが不幸になってしまう…と思い込んでおり、他人を避けている。 とても気弱で何かあるとすぐに泣いてしまうが、誰かのためなら一生懸命頑張ることができる健気な少女である。”

これを見て俺っちは正直「なんか違うんだよなぁ~。」と思ってしまった。

もちろん、ウマ娘のスタッフがその馬に対するイメージをどう持とうが構わないし、何だったらその馬のイメージ通りにキャラを造形する必要もないのだけれど、ことライスシャワーに関してはどうしてもこのイメージだと違和感が出てしまう。

俺っちの中のライスシャワーのイメージはよしだみほさんの「馬なり1ハロン劇場」で、常に金棒(って言うのか、アレ?)を持って出て来て、同期のマチカネタンホイザに命令口調で話したり、「記録」と聞くとそれを阻止するために全力を注いだりする描写があったせいか不遜で天邪鬼なやつ。一言で言えば、ヒーローに対する「反骨心」のようなものを持った馬というイメージがある。

俺っちが何故そんなイメージを持つようになったのか、それはライスシャワーの経歴が物語っている。

ミホノブルボンの三冠を阻止

ライスシャワーが最初に大きく注目を集めたのは日本ダービーでの激走だった。

この年のダービーは皐月賞を無敗で制した栗毛の超特急ミホノブルボンが1番人気。焦点は快速で飛ばすミホノブルボンが逃げ切れるか否かだった。

この時のライスシャワーは単勝100倍を超える16番人気。ここまでの目立った実績は芙蓉S1着程度で、皐月賞もトライアルのNHK杯も8着に敗れていたこの馬に注目が集まらないのは当然だった。

レースはテンの3F目からゴールまで12.0~12.6のラップを出し続けたミホノブルボンの見事な逃げ切り勝ち。距離不安をものともせずに4馬身差の圧勝だった。

一方のライスシャワーは、ミホノブルボンにこそ水を開けられたものの、終始2番手から積極的な競馬を見せ、マヤノペトリュースなど後続勢の追い上げをしのぎ切り2着と好走。荒れ馬場を考えるとしぶとさが光るレースぶりだったと言えるだろう。

順調に夏を越したライスシャワーはセントライト記念2着の後、京都新聞杯でミホノブルボンとダービー以来の対戦。このレースもミホノブルボンに逃げ切りを許したが着差は1馬身半差まで詰まってきた。

さらに、ライスシャワーの父リアルシャダイは前年菊花賞2着のイブキマイカグラや1990年の阪神大賞典を勝ったオースミジャダイを輩出しており、血統的にもレースぶりも決して長距離向きとは言えないミホノブルボンとの差は菊花賞でさらに詰まる、あるいは逆転することも十分に考えられた。

迎えた菊花賞。

かねてより「ミホノブルボンのハナを叩く」と公言していたキョウエイボーガンが積極的にハナに立つと、ミホノブルボンはそれを見て2番手に控える形をとる。

2コーナーまでは、逃げるキョウエイボーガンから少し離れてミホノブルボン、そのミホノブルボンからまた少し離れてメイショウセントロと言う具合に、今流行りの”ソーシャルディスタンス”を思わせるポツン、またポツンと馬が点在するような先頭集団だったが、3コーナーを迎えるころにはその差がグッと詰まっていき、4コーナーを迎えた時にはミホノブルボンが先頭に立っていた。

このまま無敗の三冠ロードを駆けていくと思われたその時、ミホノブルボンの栗毛で明るいムチムチとした馬体とは対照的な、黒光りのするこじんまりとした馬が足を伸ばしてきた。ライスシャワーだ。

残り100mでライスシャワーがミホノブルボンを交わした時、場内には歓声とも悲鳴ともとれる声が漏れてきたという。

ミホノブルボン三冠ならず。

ゴール後のスタンドはライスシャワーを称える雰囲気よりも、ミホノブルボンが三冠を獲れなかったことに対する喪失感に覆われていた。

次なるターゲットは天皇賞春、最大のライバルはメジロマックイーン

有馬記念え8着と敗れたライスシャワーは翌年の目標を春の天皇賞に据えて調整される。

目黒記念2着、日経賞1着と順調にステップレースを踏んでいったライスシャワーだったが、天皇賞には当時古馬長距離界で圧倒的な存在と君臨し、前人未到の天皇賞春3連覇を目指すメジロマックイーンも出走を予定していた。

「メジロマックイーンを絶対に倒す」

陣営の決意は調教に表れた。2週間前から栗東トレセンに入るとハードなスパルタ調教を慣行。「天皇賞の前に馬が潰れてしまうのでは」という声も上がったと伝えられている。

事実、天皇賞春当日のライスシャワーの馬体重は400キロ台前半と元々大きくはない馬体重でありながら、前走でさらに12キロ減と極限まで研ぎ澄まされた馬体となっていた。

レースは菊花賞に近い展開になった。大逃げを打ったのは前年の春秋グランプリを連覇したメジロパーマー。それを離れた2番手集団の中からメジロマックイーンとライスシャワーが追走する形。

3コーナーすぎからメジロマックイーンとライスシャワーがにメジロパーマーを捕らえんと動き出す。4コーナーでは上位3頭が並ぶ。

直線も菊花賞と酷似した展開となった。先に抜け出しを図るメジロマックイーンを直線半ばでライスシャワーが捕らえるとそのままごるまで突き放し完勝。陣営の渾身仕上げが実を結ぶ結果となった。

ミホノブルボンの三冠に続き、メジロマックイーンの3連覇も阻止した形になったライスシャワーは関西のマスコミから「刺客」「ヒットマン」と呼ばれるようになり、言わばヒール的存在として扱われるようになった。

このことに関しては「懸命に走った馬に失礼」という意見もあるだろうし、そもそも「競走馬にキャラクターをつけて楽しむこと」自体に否定的な方もおられるだろう。

ただ、俺っちはこの「ヒール扱い」と言うのを必ずしもネガティブに捉える必要はないと思っている。

唐突かもしれないが、俺っちは競馬を好きになってすぐの頃は武豊が嫌いだった。

皆が武豊が勝つのを期待していて、それが何となく気に食わなかったからと言うクソガキにありがちな単純な理由。だから、当時は貴乃花も巨人も(巨人に関しては今もか)嫌いだった。

そんな俺っちにとって「世間の期待」に対して抗っているように見えるライスシャワーの走りは胸がすくものを感じた。

2年に及ぶ不振

天皇賞で現役最強馬を負かしたライスシャワー。この時は同期の二冠馬ミホノブルボンも故障により現役を退いており、これからはこの馬が古馬中長距離路線を引っ張っていくかに思えた。

しかし、天皇賞で極限の仕上げをした反動か、もしくはこの馬にとって距離が短いのが災いしてか、その後のライスシャワーはめっきり勝てなくなってしまう。

途中骨折休養もあったとはいえ、天皇賞から2年もの間一度も勝てず、一部ファンの間では限界説もささやかれ始めた。

そして迎えた1995年の天皇賞春。メジロマックイーンを破って以来久しぶりの3000mを超える長距離戦。ここで結果を出さなければいよいよ限界説が濃厚になってくるのは間違いなかった。

スタイルを変えての復活、そして……

1995年の天皇賞春は前年の三冠馬ナリタブライアンがケガで戦線を離脱し、主役不在のレースとして混迷を極めていた。

1番人気はエアダブリン。前年のダービー2着、菊花賞3着馬でステイヤーズS、ダイヤモンドSと長距離重賞を連勝し、勢いに乗っての参戦。現代の競馬ファンには父こそ違うがダンスパートナーやダンスインザダーク、ダンスインザムードの兄と言った方が分かりやすいかもしれない。

一方のライスシャワーは4番人気。メンバー中唯一のG1ホースとしてはかなり低い評価だったと言えよう。

レースはクリスタルケイが逃げる形で2周目向こう正面までは淡々と進んでいた。

ここでライスシャワーが動く。外目からスルスルと前に進出していき、3コーナーでは先頭に立つ。

これまで2度のG1を直線に入ってから、マークした馬をきっちりと差し切るという型で勝ってきたこれまでのスタイルとはかけ離れたレース。いや、「ゆっくり登ってゆっくり下る」が定石とされてきた京都コースを走る上での常識からも考えられない作戦を鞍上の的場均は敢行したのだった。

その戦法に虚を突かれたのか、それとも京都コースの定石を意識したのか、はたまた後続の馬にマークが集中したのか、誰も追随する馬は表れず、ライスシャワーは4コーナーの出口で3馬身のリードを取っていた。後は自身のスタミナを存分に生かして粘りこむだけ。

残り400m~200mのタイムが11.5に対して、ラスト200mのタイムは12.5。決して楽な競馬ではなかったが、それでもライスシャワーは大外を行ったステージチャンプの猛追をハナ差しのぎ切り3つ目のG1タイトルを手にした。

これまでの2つのG1は「○○の大記録を阻止」という側面が大きく取り上げられたライスシャワーにとってこの日は初めて「正統なヒーロー」という立ち位置を得たレースだったのかもしれない。

しかし、その1か月半後。ライスシャワーは今度は「悲劇のヒーロー」として注目されることになる。

宝塚記念。本来陣営はそこまで強く出走の意思があったわけではないと伝え聞く。しかし、ファン投票で1位に選ばれたこと、中距離のG1を勝てば種牡馬としての”箔”をつけられること、そして、その年の宝塚記念は阪神大震災の影響により阪神競馬場ではなくこれまでG1を3勝した得意の京都コースで開催されることが陣営の後押しをし、出走に踏み切った。

3コーナー、落馬競走中止。

その瞬間スタンドから悲鳴が漏れるほど痛ましい倒れ方で、多くの人がライスシャワーの最期を悟った。

俺っちにとってライスシャワーは「反骨心」の象徴

「刺客」「ヒットマン」というヒール的イメージから、レース中に命を落とした「悲劇のヒーロー」と言うイメージまでたくさんの「キャラ付け」がされてきたライスシャワー。

俺っちの中では自分のスタイルを決して曲げない、少なくとも「多数派だから」とか「(本当はみんなじゃないけど)みんなの願い」とかそういう論理には絶対屈しない「意志の強さ」や「反骨心」を象徴するような馬だと思っている。

こんな風に言うのはおかしいかもしれないが、俺っちの中でのライスシャワーは『悲劇のヒーロー』扱いされることに

「やめろ。そんなの俺には似合わない。」

って言っている気がする。そんな馬なのである。