「お坊ちゃま」が辿り着いた栄冠~思い出の高松宮記念キングヘイロー編~

キングヘイローという馬は「お坊ちゃま」と言うイメージが強い馬だ。

父は86年の凱旋門賞馬で、「80年代欧州最強馬」の呼び声も高いダンシングブレーヴ。母はケンタッキーオークスを筆頭に、アメリカのG1を7勝したグッバイヘイロー。欧米の名馬を掛け合わせた、まさに「世界的良血」と言える馬だった。

ここからして「お坊ちゃま」と言うイメージが湧くわけなのだが、レースの走りもどことなく「お坊ちゃま」が持つ気高さと脆さを併せ持っている感じだった。

首の高い走りはよく言えば気品、悪く言えば気位の高さを表しているように思えたし、力を出し切れば素晴らしいパフォーマンスを発揮する一方で、闘争心に火がつくと周りが見えなくなり、それを萎えさせると途端に走る気をなくす難しさも持っているところも、ステレオタイプではあるが「ぼんぼん」の持つイメージそのものだった。

そんな「お坊ちゃま」キングヘイローは、その血統の良さもあってデビュー当初から期待をかけられ、それにこたえるかのようにデビュー3連勝。当然のようにクラシック路線に乗ってきた。

しかし、その「精神的な難しさ」が災いしてか、クラシックでは皐月賞2着、ダービー14着、菊花賞5着と結果を出すことが出来なかった。

特にダービーはその「精神的な難しさ」がもろに出たレースで、スタート直後から位置を取ろうと当時20歳の福永祐一騎手が促したのに反応「し過ぎ」てしまい、終始力んで走ってしまった結果4コーナーでは息切れ。人馬共に「若さ」が出たレースとなってしまった。

古馬になったキングヘイローはその「一度闘争心に火がつくと抑えが効かない」気性を考慮してか、短距離路線に舵をとっていった。これは親の決めた道、すなわちダンシングブレーヴのように中長距離路線の核として走ること、よりも自分のやりたいことや持ち味を生かす道を選ぶ若人に何となくダブるものがあった。

短距離にシフトチェンジした当初は東京新聞杯、中山記念を連勝。マイル路線のエースに上り詰めることが期待されたが、G1ではマイルCSの2着が最高で、どうしても勝ち切れない日々が続いた。

5歳になるとダートにも矛先を向け、フェブラリーSに参戦するも最内枠スタートから砂を被る競馬をした影響もあってか13着と大敗。G1での連敗はついに10を数え、もがけどもがけど栄冠を手にすることが出来ないでいた。

迎えた2000年高松宮記念。

7枠13番に入ったキングヘイローは後方からレースを進める。距離損にはなるが、馬の機嫌を損ねない事への配慮か、終始外々を追走。序盤は追走に苦労しているように見えたものの、直線に入ってエンジンがかかると大外を一気に強襲。当時は短かった中京の直線で豪快な差し切りを決め、G1初制覇を飾った。

キングヘイローと柴田善臣騎手が検量室に戻ってきた時、テレビカメラに映し出された坂口正大調教師の目には涙が溢れていた。もがいて、もがいて、もがいた結果得たG1は格別のものがあったのだろう。

「お坊ちゃま」と言うイメージのあったキングヘイローが苦労に苦労を重ねて獲ったG1は、諦めないことの大切さを象徴するような勝利だった。